打ちすぎて

非モテ女と言えば、姫野カオルコ。 『もてない男』を最初に読んだときに知ったのだけれど、彼女の本を実際に読むことはなかなかできませんでした。彼女の本を通して、己の非モテとがっぷり四つで組むことになると察知していて、きっとそれを避けたかったからでしょう。しかし土曜に飲んだ際に、「やっぱり、姫野カオルコ読みなさいよ!」と強くすすめられたこともあり、重い腰を上げることにしました。 手に取ったのは、エッセーの「みんな、どうして結婚してゆくのだろう」。 結婚にまつわる諸々についての発言が、自分の恨み節とシンクロするものばかり。膝を打ちたくなる発言にあふれていて、怖いくらい。非モテの巨匠は、すごい。やはり小説も読むしかないわ。
みんな、どうして結婚してゆくのだろう みんな、どうして結婚してゆくのだろう
姫野 カオルコ (1997/10)
大和出版

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たとえば、膝を打ったのは… あたかも存在しないようにされているけれども、「結婚」という営みに厳然としてある「セックス」をめぐる次の発言。 「清楚な花嫁と花婿のほうが、私よりもずっとずっとセックスをしているのに、世間は私のほうがずっとずっとセックスをしていると思っている……」「引き出物にいいものなし」 わたくし、このての恨み節をよくうなっています。新婚さんにかぎらず、私は言います。パートナーがいるいる人だったら結婚していなくても、やはり言います。 結婚というのはだれかと「恒常的にセックスをする生活」である。「『ごくふつうの結婚』はどうしてできるの」 生活を共にする相手だから、話のそりが合うなど内面的な部分がより重要だとは思うのだけれども、セックスなしでは済まされないものだとやはり思うため、ここで膝を強打。まぁ、私の場合、結婚(生活)とセックスを密につなげて考えてしまうのは、話のそりや間が合いそうだとか思える人と寝たいと思うという性質に負うところが大きいと思うのだけれども。 それから、 ザ・しーん。 これを肌で感じたことがあるか否かの差ではないかと思う。「自宅ボーイのゆううつ」 もともとこれは、自宅男性の縁遠さの要因を分析しての発言。でも私は、「ザ・しーん」の感覚をめぐる隔たりは、男女に限らず、あらゆる人間関係で出てくるものだと思うのです。そして私がモテない自分を嘆く(ということはつまり、モテ状態にいる女に恨み節を言う)時に念頭にあるのは、この隔たりなのでしょう。 膝を打っていて怖くなるくらいだったのは、理想とする関係についてのくだり。 私の知っている円満夫婦は、それぞれ職業も、夫婦間年齢差も、収入も趣味も居住地区もちがうけれども、彼らは例外なく「散歩をする夫婦」である。これはどういうことか。ふたりで会話しているということである。たわいないこと、深刻なこと、かなしいこと、うれしいこと、いろんな会話のできる夫婦に、結婚するならば私はなりたい。」「on your own」 「言葉がだいじだ」とかねがね思ってきたのですが、そんな思いとどんぴしゃとりと重なるのです。