キャンピィ感覚 伏見 憲明 (1995/08) マガジンハウス この商品の詳細を見る |
ほがらかに
ヘロヘロ化が再び進行しだしたため、どうにも気持ちが荒んでくる今日この頃。ほがらかでいきたいものよ…ということで、手に取ってみたのがこちら。
私ってばキャンピィ(自己を相対化してそれを自重しつつ、それを笑いとばせる感覚ということでしょうか)からはほど遠いなぁ…と、しょぼんとなってしまったり。せめてキャンピィとは対局のオナル(自己防衛のために毒を吐くタイプ)にはならないように気をつけようと思ったり。
10年以上前の本だけれども、ピンときたのはこのくだり。
フェミニズムが近年勢いを失くしているのは、その表現において、生身の人間の感情を置いてきてしまったからではないか。いつも「差別だ、蔑視だ」と公式的な言葉を繰り返すばかりでは、どんな立派なことをいっていても、人々は説得されない。そこにパーフェクトではありえない、現実の中で右往左往する自分自身の姿が投影されていないと、いきいきとした人間の思想にならないのだ(まぁいいけど)。
なんというか、自分の中に依然としてある居心地の悪さがまさにこういうことなのではないかと、感じたのです。「読み」ではなく「考え」を語ることがあれば、生身の自分を出したいものです。
とにもかくにも、今は「読み」の方を遮二無二やるのみなんだけど。昨日の研究会で博士号取得者(他大の方)とちょっとお話ししていて、刺激を受けたし。