へっぽこ講師のあれやこれや(別館)

頻繁にやる気が行方不明になる大学教員の雑記です。アカデミックな要素はかけらもありません。

わたしの就活

週末の遠征がこたえているのか、思いっきり朝寝。のそのそと起床し、とりあえず洗濯したり、届いたばかりのiBookにソフトのインストールをしたり。

とりあえず授業がひと段落したことだし、ここいらで今年のこと、とくに就活のことを振り返っておこうと思います。人文系の院生の日常というのは案外世に出ていない(というわけで、入院してみて吃驚仰天したりする)から、自分のようなへたれ院生の生態の記録を残すというのもアリかもしれないというのが、ブログを始めるきっかけでした。そんなことを思い返し、リアルタイムでは書けなかった就活のことをここいらで書いておこうと思います。

本格的な就職活動に着手したのは、昨年度のことでした。それまでも出せそうな公募があれば応募するということはポツポツとやっていましたが、「仕事の前にまず論文」という雰囲気におされ、思い切ったことはできていませんでした。しかし、D3の繰り返し*が使えなくなる時が迫ったことで、また、生活のため非常勤に明け暮れるうちに諸々のことが行き詰まり気持ちも不安定になったことで、「生活の安定なくして…」と考え、就活へと大きく舵をきることにしました。

就活を本格化させるにあたって心に決めたのは、「研究職」で「強制退院から2年以内」に内定を得ることでした。「強制退院から2年」という年限は奨学金との兼ね合いによるもので、このしばりから、最後の方は「研究職」が「免除職」に変わってしまっていましたが(そのため中高の教員も射程に入れ、今年の夏は私学適正も受験予定でした)。

そのような決意のもと、毎日JRECのホームページで公募情報をチェックしては出せそうなところに応募するということを繰り返す日々が始まりました。博士号を持っていないので応募できるところは限られていたし、留学経験もないので応募できても分は悪かったのですが、それでもともかく公募書類を書き続けました。

そうこうするうちに、去年の夏に初めて面接に呼ばれました。この時は教育よりも研究に対する希望を語りすぎ、会場はどん引き。「教育機関を取り巻く昨今の状況を理解されていないのでは…」という趣旨のことを言われ、「研究のことは聞かれるまで喋らない方が賢明なのか…」と思いつつ、帰還。その後も応募を続け、たまに面接に呼ばれては玉砕ということ(3月末、5月頭、6月)が続きました。

自腹の旅費で首が回らなくなりつつあった7月半ばに、また面接の連絡。旅費と非常勤の期末試験の心配をしつつ、模擬授業の準備をととのえ遠征したのが7月末。しどろもどろにながらも、どうにかこうにか面接を終了。「緊急連絡用に携帯の番号を教えてもらえませんか」と事務の方に言われた頃には、開始から1時間半は経っていました。面接で聞かれたのは、教育活動に関すること(英語教育や学生対応)、研究に関すること(研究テーマや博論、学校の性質上研究に関係することが授業ではやりにくいこと)、人物評(とくに事務能力のこと)、学校についての知識など。これまでの面接と違っていたのは、事務処理能力について単刀直入に聞かれたことと、英語教育の業績がないとケチがついたこと(といっても、公募の条件には入ってなかった)。

玉砕した時に得た教訓を思い出しつつ面接を乗り切ることはできたけれども、英語教育研究の業績がないという今さらどうにもできないことを言われたため、「無駄足になっちゃったな」と思いつつ、帰還。バイトを探さないと就活ができないなぁ…とか、明後日の試験を作んなきゃ…とか、私学適正の勉強も始めないと…なんてことを、新幹線にゆられつつぼんやり考えていたところ、携帯に内定の連絡が届いたのでした。

私の就職活動はこうして幕をおろしたわけですが、「強制退院から2年以内で絶対に決める」という執念が効いたのだと思います。活動の最中は先が見えなくて落ち込むことも多々ありました。しかし終わってみれば、二十数回の応募で内定を得ることができたので幸運だったし、この幸運は生来の執念深さ(モテ関係ではこれが常に裏目に出るわけですが)が引き寄せてくれたのかもしれません。とにかく投げ出さなくてよかった。それが就職活動を終えてみての実感です。

*「課程博士を!」という趨勢もあり、私の入院先では休学や留年を使ってD3を繰り返すことが慣習化しておりました。