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耳学問その1

週末に上京した際の耳学問についてメモ。本人の気分としてはゾンビな状態で聞いていたものなので、メモになっているかは分からんけど。まずは、日本ナサニエル・ホーソーン協会全国大会。


1日目は研究発表2本、Joel Pfisterを招いての特別研究発表(ホーソーン研究とアメリカ研究との関連について論じたもの)、ワークショップ(「ロジャー・マルヴィン」の埋葬」に関するもの)、総会に特別講演。

ワークショップのキーワードは、「インディアン」、「埋葬」、「贖罪」か。
パネリストのうち二人は、「インディアン」と「埋葬」の問題を扱っていたけれど、方向性には違いがあった。成田先生は、ラヴェルの闘いが物語冒頭で言及されている(しかし物語にインディアンは登場しない)ことから、物語とインディアンの問題の関連の有無、インディアンの問題を念頭に置いた場合の「父殺し」の解釈の仕方、マルヴィンを埋葬しなかったことの意味へと議論を進められていた。辻先生は、「埋葬」という点に焦点を当てた議論を展開。埋葬の際の死体の姿勢はキリスト教(生死の境が厳格)とインディアン(死は生きることからの解放で、魂は活動を続けるととらえる)のそれぞれの死生観を反映するものであることから、*1マルヴィンがとる姿勢はルーベンの苦悩と絡み合うものであるという指摘は、かなり興味深かった。
それにたいして、丹羽先生の発表は「贖罪」の問題を中心にしたもの。ルーベンがあがなおうとする「罪」とは何か、また、彼がおこなう贖罪に必然性はあるのかといったことを突き詰めていくと、マルヴィン父娘による善意の支配へのルーベンの隷属状態が露わとなる。この点を踏まえると、ルーベンが犯す贖罪としての殺人は自爆的な完全破壊であり、物語は”家族崩壊(自爆的な完全破壊)の物語”ととらえられるとのこと。
発表およびディスカッションから、インディアンの問題にしろ、贖罪の問題にしろ、物語では語られていない前置きや詳細が肝になるということを感じたし、指摘もされていた。ディスカッションでは、登場人物の主体性についての質問が出て、ブラウンの『エドガー・ハントリー』とのつながりも指摘された。*2

特別講演は、東北大所蔵の「漱石文庫」の分析から、夏目漱石に対するホーソーンの影響を論じたもの。とくに興味深かったのは、『それから』の代助がおこなう胸に手を置く仕草や後期作品での姦通の扱い(『それから』は姦通未遂(姦通願望)の、『門』は姦通後の物語であって、姦通”後”小説である『緋文字』と同じく姦通そのものは描いていない)から、『緋文字』の影響がうかがえるという指摘。「漱石文庫」から読んでいいることが分かっている『七破風の屋敷』とは異なり(書き込み入りのBohn's Cheap SeriesのThe House of the Seven Gablesがある)、漱石が『緋文字』を読んだかは定かではないとはいうものの、さもありなんと思いながら拝聴。

ちなみに自分の発表では、男のケア自体は実はそれほど奇異ではないのになぜビリーやクリフォードのケアは問題なのかという点、「男らしい」男の枠からはみ出す「男」の定義、ビリーの暴力とヴィアのパターナリズムの解釈などについて質問をいただく。また、キリスト教文化について、きっちり学んでおく必要性もあらためて感じたり(これは英文学会のシンポを聞いていても感じたことだけれど)。それから、ケアを”される”側に焦点を当てたのが今回の発表だけれども、ケアを”する”側のほうがむしろそそられるなんて話も、セッション終了後には出たりして。

*1:生死の境目ということでは、これの無さがゴシック小説では取り上げられるという指摘もあった。

*2:主体性という点だけではなく、インディアンの影という点でも、この作品はつながりを見いだせる