へっぽこ講師のあれやこれや(別館)

頻繁にやる気が行方不明になる大学教員の雑記です。アカデミックな要素はかけらもありません。

師匠

お茶の水女子大学竹村和子先生が、12月13日に逝去されました。研究者・思想家としての竹村先生の業績については、今後多くの方が書かれることでしょう。そうしたことはへっぽこ研究者の私の手にはあまりますし、ここでは指導学生として、先生のことを綴っておきたいと思います。


先生といってまず思いだされるのは、その笑顔です。先生は、いつも微笑みを浮かべていらっしゃいました。厳しい論文指導のあとも、研究室を出る際には微笑みをたたえ、励ましの言葉とともに送り出してくださいました。先生のやさしい笑顔にどんなに勇気づけられたかわかりません。

また、研究者としてはたいへんな切れ者だというのに、普段は案外ぬけたところがあって、お茶目な人でありました。「私はね、香りフェチなのよ」とうれしそうに言っていた時のこと、12月にアウトドア用の真っ赤なコートを着込んでニコニコして立っていた姿、血糖値レイザーを買いにいったお駄賃に大きな蜜柑を手渡してくれたこと、パソコンのことなどちょっとしたことを教えてあげると「アンタ、すごいわねぇ」とやたらと感心すること、パワーポイントで新しい技を身につけるとすぐにそれを自慢げに見せてくること。今ふりかえると、何気ない、かわいらしい姿ばかりが思いだされます。


私が先生と最後に会ったのは3年前の夏の終わり――先生がサヴァティカルでバークレーに行かれる直前、私が就職で東京を離れる直前――のことでした。それ以後、メールでのやりとりになってからは、健康に留意するようしきりに説かれたものでした。「私が言うのも何ですが、食事と運動です」と。「注意しなくちゃいけないのは先生ですよ」と思ったものですが・・・。


批評のことは何も分からず、英語力も酷かったのに、19世紀のアメリカ文学が専門ということで、先生は私の指導教官になってくださいました。まだ院生も少なく、多忙を極めるようになる以前に師事することができたため、先生とじっくりと論文を読みこんだり、授業後にもあれこれお話をするということができました。初期の竹村ゼミですごす時間は、今思えば本当に贅沢なものでした。そして、私が今も研究活動を続けていられるのも、ゼミで先生に鍛えてもらったおかげです。

私の中の先生はいつも溌剌としていたから、いつまでも元気でいるものとばかり思っていました。私が50を過ぎたとしても先生は元気いっぱいで、「アンタ、やっぱりバカね!」と言われることになるのだろうとばかり思っていました。そんな思いもあってか、本分の研究は遅々として進まず、結局先生に論文を本格的にみていただくことはかないませんでした。ずっと励ましてもらっていたにもかかわらず、その激励にこたえられなかった自分の歩みの遅さを悔やまずにはおれません。


先生にもういちど会いたかった。「バカ!」と叱ってもらいたかった。



まとまりのない文章になりましたが、私が茗荷谷を離れてから後にいただいた励ましの言葉のひとつを最後に記します。
みなさんにとっても力になりますように。

なんでも修行したものは、自分の力になって残っていきます。また時代もどのように変わるか分かりません。
 わたしも、学部生の時には、セクシュアリティで論文が書けるとは思っていませんでした。

一つ一つ積み重ねて、堅牢で、open-endedな、あなた自身の世界を作り出していってください。