へっぽこ講師のあれやこれや(別館)

頻繁にやる気が行方不明になる大学教員の雑記です。アカデミックな要素はかけらもありません。

文学研究者に存在意味はあるのか

学会から2週間が経ってしまいました。ゾンビ状態で、日々のあれこれにおいたてられているだけの日々でした。いけません・・・と思ったところで、学会で聞いてきたことをまとめておきます。


日本英文学会中国四国支部シンポジアム
「英語リーディング教授法の多様化のなかで――文学研究者に存在意味はあるのか」

文学作品を教材にすることをやめた丹治先生は現在おこなっている英語リーディングの授業について語り、菅原先生は文学作品の精読を擁護し、高橋先生*1と小野先生は、学習指導要領とつきあわせながら教材としての文学作品の可能性をさぐり、今林先生は英文学の文体論の授業を再現してみせることで文学作品を教材とする意義を示すというシンポでありました。総意としては、文学作品は「英語(リーディング)」の教材となりうるし、文学作品と向きあっている文学研究者の存在意味もあるということになる、ということ。文学研究者の学会であるからこういう結論にはなるだろうし、この世界のすみっこでどうにかこうにか生きている自分にとっては勇気づけられるようなシンポではありました。ただ、「文学作品にも文学研究者にも意義がある」という主張は励まされはするけれど、文学系の集まり以外の場所に乗りこんでいってやらないとどうにもならないかな…というのが正直なところ。また、文学作品を教室で読みたいのなら、それぞれの教師がそのための理論武装をしなければいけないな…とも感じました。


ここでは、丹治先生、菅原先生、小野先生の講演部分をメモ。


丹治愛「リーディング教授法の多様性――悪魔の弁護人の立場から」

東大教養学部の「英語」の授業についてのお話。2005年(平成17年度)までは文学作品を教材とした訳読形式の授業をしていたが、授業評価がやや低い、学生が興味をもたない、理解できないのを文学性のせいにして英語力不足を認識しない、1学期で読み終えられないという状況があったことから、

母語教育が、日常的コミュニケーション能力以上の言語能力の養成を目的とするとすれば、それはどのような言語能力なのか。

それはより高度な読解能力と表現能力と、理科的な数学的論理能力を相互に補完的な文学的な言語的論理能力であるのではないか

外国語教育も、そのような母語教育を補完するものとして、言語的論理を養成するものでもなければならないのではないか

いわゆるコミュニケーション型英語教育を補完するもうひとつの英語教育が必要なのではないか

と考え、教材は文学作品から、New York Times, Washington Post, Los Angeles Times, Chicago Tribune, Times, Financial Timesといった新聞記事(1回で読み切れる長さのもので、短期で忘れ去られる事件ではなく現代世界の傾向を解説しているような記事)に、授業方法も予習を求めない(その代わりに授業後のレポートを課す)形式に変更。学生には、授業の目的・内容として、

英語の新聞記事を読み、そのパラグラフ構成を分析することで、記事全体の論理構造を把握したうえで、記事の内容を過不足なく日本語にまとめるという作業をとおして、ある程度の長さをもった英語を正確に、かつ論理的に読みとる、そしてその内容を論理的な日本語で表現する訓練をする

と、説明。

具体的な方法は、

1.記事[理解が難しい箇所(4つ程度)についての質問をつけたもの]を配って一斉に読む(30分程度)
2.4名程度のグループに分け、質問箇所をふくめ理解できなかったところを学生同士で確認させる(学生同士で解決できなければ、教員に質問する)。教員からの質問の解答と教員への質問をグループごとに用紙に書いて提出 <一週目はこれで終了>
3.<2週目>学生の解答を参照しながら解答を提示するとともに、学生からの質問にも答える
4.<授業後>日本語要約(500字程度、600字以下)の課題を課し、メールで提出させる
5.教員が添削*2して返却

という流れ。

このような授業では文学研究者の立つ瀬がないではないかということになりそうだけれど、全くそんなことはありません。そのことは、

文学作品を使用しなくても、文学研究者は、テクストを読むことと書くことの技術を教えることをとおして、優れた言語能力(読解能力、表現能力)と、それと関連する言語的論理能力を学生に身につけさせることによって、英語教育に独自の貢献ができるのではないか

という結論から明らかです。



菅原克也「訳読の擁護と顕揚」

菅原先生が発表で提起した問題は、

1.教室で語学を学ぶとはどういうことか?
2.文学教材はなぜ敬遠されるのか?
3.文学研究者と文学作品と訳読は三位一体であった/であるのか?

という3点。

1については、「文体の感覚(身体的なもの)を身につけさせること」*3であると応答。身につけるべきとされる「文体の感覚」は、文学作品(散文のフィクションにとどまらず、詩、評論、伝記も含む)において研ぎすまされているものである。

2については、文学の社会的地位(権威)が低下したこと、映像やインターネットなどのメディアをとおして大量に情報が流入するようになったことで文学作品で描かれる外国の魅力が色あせたことを原因として指摘。

3については、聞き逃したらしくて肝心の部分のメモがないのでなんだけれど、現在は三位一体とみなされてはいないもよう。そのような状況の核にあるのが、"literacy"の感覚の変化、つまり、「literacyの核心には文学がある」という感覚が求められなくなっていることのようです(メモが中途半端だから自信がないけど)。

このまとめだと文学研究者の存在意味はないように見えるけれど、そうではないです。というのも、文学作品は「文体の感覚」を身につけるのに適しており、文学作品を読むうえで適切な日本語の語義へと学生を導くことができるのは文学研究者としての教員だからです。


小野章「文学教材によってこそ育まれるリーディング能力って何だろう?」

『新学習指導要領』が規定する読解力(とくに「コミュニケーションI」と「コミュニケーションII」)と応用言語学が規定するコミュニケーション能力を効果的に高める手段として文学作品をとらえようというもの。文学作品により効果的に育成される能力は、

1.物語などを読むことを通し、登場人物の言動やその理由等を文脈に即してとらえる
2.物語などを読むことを通し、読む楽しさを体験する
3.随筆などを読むことを通し、書き手の経験や意見を、読者自らのそれと照らし合わせる
4.音読や暗唱を通し、文章に込められた意味が相手に伝わるように音声表現する
5.文学を通し、ユーモアや比喩表現について理解する
6.文学を通し、字義どおりの意味と暗示された意味との違いに気付く
7.文学を通し、内容を伝える表現そのものに着目する

というもの*4です。

*1:コミュニケーション重視に向かっていく流れを前半で解説

*2:(1)事実の間違い・誤読、(2)説明不足、(3)説明過多、(4)論理的繋がりの欠如・不足、(5)主語などの欠如、(6)日本語の問題、(7)パラグラフの分け方というように、できるかぎりで番号で済ませる

*3:外国語と母語の両方の感覚を身につけられるのが訳読なのかなぁ・・・と思います。菅原先生はそういうふうには言ってなかったけれど。

*4:1〜4が指導要領に基づくもの(読み方は目的に応じて選択)、5〜7が応用言語学に基づくもの