合宿的俄勉強も三日目。現在詰め込んでいるものを月末までにどう出すかを考えなければならないのが悩ましいけれども、”専門”の文献を集中的に読む時間が持てるというのはしあわせ。
しあわせといえば、ふとした時に色ののった爪が見えることも(餞別にいただいたアナスイのN305を使用中)。「かまわれている」(正確には「かまっている」だけど)という気持ちになって、なぜだか上向きになるのです。それから、「Walk」を読むのも目下のしあわせ。
ひつまぶし作戦(=英語教育系研究のプロジェクトの別名)の打ち合わせのため、今日は午後から登校。集計したデータを前に、ああでもないこうでもないと、2時間ばかり話し合い。
登校してみたら、母の携帯から「へっぽこちゃんげんきですか××(←実家で子守をすることがある従妹の子どもの名)は馬鹿です」と謎のメールが入っており、「何ごと!?」と思って電話。メールは従妹の子が自ら作成したとのことで事件でもなんでもなかったのだけれども、近況を報告しているうちに、父の誕生日を失念するという失態を演じていたことが発覚。いくらバタバタしていたとはいってもなぁ・・・と反省。「××ちゃんげんきですかへっぽこちゃんも馬鹿です」というメールを書かねばならんのぅ・・・。
研究室から文献をピックアップして帰宅。
今回の発表で考える問題(ケア)とのからみで、研究室ではこちら(↓)に入っている論文(John Starrett Hughes, "The Madness of Separate Sphere")を読み返したり。
Meanings for Manhood: Constructions of Masculinity in Victorian America
- 作者: Mark C. Carnes,Clyde Griffen
- 出版社/メーカー: Univ of Chicago Pr (Tx)
- 発売日: 1990/10/15
- メディア: ペーパーバック
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読んだはいいが、なにか記憶違いをしていたもよう。ううむ。院生時代にDrucilla Cornellをゼミで読んだ時にケアの話になった気がするけれども、それはそれでまた違う話になる気がするなぁ・・・。