へっぽこ講師のあれやこれや(別館)

頻繁にやる気が行方不明になる大学教員の雑記です。アカデミックな要素はかけらもありません。

余韻のなかで

どうもこんばんは。「結婚願望」というものを池袋近辺に置き去りにしてからというもの、だらっとした一人暮らしを満喫しつづける非モテ英語教員です。今日は肉(食いたい)欲を満たすために部屋で一人焼き肉をしてました。そんな非モテの休日はさておき、この一週間は先週開催された「フォーラム」の余韻にひたっているうちに過ぎてしまっていました。


はじめに講演のお話をいただいた時には、「英語教員としては“なんちゃって”な自分なんかが上がっちゃいけないところでしょうよ…」と思いました(生半可な気持ちで仕事をしているわけではないけれど、文学研究の分野でトレーニングを受けてきたので英語教育は畑違いという思いがぬぐえないのです)。しかし、「多読」についての誤解などに直面するにつけ、「”(SSS)多読”を実践している人間として思うところを率直にお話するのも悪くないかも…」と思い、お話を受けることにしました。講演によって、参加された先生方に多読授業を知ってもらえたのはもちろんですが、私自身が藁にもすがるような思いで多読に向かった時のことから授業が軌道に乗りつつある現在までをふり返ることができました。ふり返ってみて、「(論文を)たくさん読んでないからろくなモンが書けないのよ!!!」と師匠に叱られ続けた入院時代が多読授業導入の根っこにあるのだということ(←多読の会合でこの話をしたことはなかったなぁ…)を言えたのはよかったですが*1、学生を前にして「自分の方が変わってみよう」と思った理由については話しきれなかった(←自分の中で整理しきれなかった)ことなど、反省点は多々あります。それでも、多読授業をされていない先生方にむかって、じっくりとお話をさせてもらえて本当によかったと思っています。主催の先生にはもう足を向けて寝られません(方向感覚がないので、知らず知らずのうちに足を向けて寝ると思いますけど…)。


フォーラムの余韻にひたりながらぼんやりと思ったのは、「授業について他者[特に多読関係ではない方々]と対話をしたほうがいい」ということでした。多読授業は、授業を行う場によって様々な加えられることになるため一様ではないですし*2、聞きかじりで脚色・歪曲して語られてしまうこともあるため、誤解されることが多いように思います。周囲にある誤解を解き多読を広げていくためには、授業にこめた思いや実践の内容・結果を実践者が率直に外に向かって語っていくこと、一方的に語るのではなく語りかけた相手の意見や疑問にも耳を傾けることが必要だと思います。また、他の実践から素直に学び、組織や学生の状況に合わせて教授法を変えていくという姿勢も必要ではないかと思います。本編から懇親会、さらにはその後のネット上の反応という流れのなかで、フォーラムはそのような対話の機会になったと思った次第です。


どこまでもぼんやりとした振り返りなので、もうこの辺で。

*1:この経験があるので、私としては多読と文学研究がものすごくかけ離れたものというわけではないのです。

*2:試験をする、あるいは、読書量を評価に加えるといった点で、厳密にいったら、私の授業も「正しい」多読授業ではないはずです。