へっぽこ講師のあれやこれや(別館)

頻繁にやる気が行方不明になる大学教員の雑記です。アカデミックな要素はかけらもありません。

文章ににじみ出るキャラ

連休4日目です。のんびりとしています。去年までは祝日でも予備校の授業はあり、なんだかんだと慌てふためいておりました(去年は助成の成果論文の締め切り目前だったので、特にひどかった)。去年までの生活を思うと、ゆっくりしていられるというのはある意味で贅沢な気もします。そのぶん、貧乏になったけれど。 そんななか、投稿論文の直しに戻りました。当初の完成目標の期日が迫り、”ちまちま”から”ガリガリ”という態勢にシフトしなければならなくなってきたので。 ”ガリガリ”状態から素に戻った時にふと、”論文にも私のキャラはにじみ出ているのか”、”にじみ出ているとしたらどんなキャラか”ということが気になりました。他の人の論文を読んでいて、「キャラってそこはかとなく出るものだわね」と感じたことが影響しているもようです。文から人柄が透けて見えるというのは自然なことのようにも思えますが、発信をする対象やメディアによってスタイルは変わります。論文か口頭発表か、翻訳だったら批評か文学テクストか、研究とは関係のないものでもネット上にのせるブログかそうでないか…によって、キャラ設定は変わってくるもの。ジャンルやメディアが違っても、それでもどこか共通に漂ってくる雰囲気が、”**節”なんて言われるような書き方のクセとは別にある気がするのです。私が発信したものに共通する”へっぽこ臭”なんてものがあるとしたら、それはどんなものなのかということに興味を覚えるのです。 こういうことが気になるのも、思い描いているキャラクターと、周囲に期待されているのだろうと推測して設定している(つもりの)キャラクターと、実際に他人が見ているキャラクターとが混沌とした状態になっているからなのでしょうね。自分をどう見せていくかということでは相変わらず迷走中という感じ、でしょうか。 そんなことをぼやーっと考えつつ、 夕餉時に「のら猫の日記」を観賞。 いまや”ハリウッド一セクシー”の称号を得たスカーレット・ヨハンソンが子役の頃の映画。「姉(妊婦)とその姉に里親の元から連れ出された妹が旅を続けるが、出産のためにある中年女性を誘拐して…」というこの映画、映画館で予告編を観た時にも気にはなったのですが、まさか妹役がスカーレット・ヨハンソンだったとは!『ゴースト・ワールド』を観た時から、彼女には声と目に趣があると思い気になっておりました(『ゴースト・ワールド』ではソーラ・バーチ演じるイーニドのダメっぷりが自分にとってあまりに痛すぎて、その反動で仕事を通して社会に入っていくレベッカを演じたヨハンソンにやたらと共感してしまった気もするけど)。その趣は小さい頃にすでにできあがっていたみたいです。女3人の関係性の変化などはサラッと描かれてしまって物足りない気もしますが、若かりし(今もかなり若いが)ヨハンソンの愛らしさで許せちゃう感じです。無軌道な姉に対して状況を冷静に把握していく賢さはあるけれども、愛情を求めているあたりはやっぱり子ども…という妹マニーの姿には、どこかきゅんとなるものがあります。