<日本>は<クィア>か?

クィア学会第一回大会@広島修道大に。シンポジウム「<日本>は<クィア>か?」を拝聴。シンポジストは中村美亜さんと田崎英明さん。 中村さんは「"人種化"問題とクィア・ポリティクス」と題して発表。発表ではまず、アメリカにおける"queer"という概念には対立するセクシャルマイノリティのコミュニティ間をつなぐという意図があったが、日本では仲間の連帯に向かったと、日本における<クィア>の受容を概説。次に、2002年のGwen Araujo殺害事件(彼女に性的関心を持った男が彼女がトランスであるということに逆上し彼女を殺害したというもので、裁判では「トランス・パニック」が争点となった)とこの事件を分析したTalia Bettcherの論文(トランスフォビアは性器とジェンダー表象を結びつける異性愛主義規範であり、人を「人種化」し暴力を容認する社会問題だとする)から、身体とアイデンティティと自己のオーセンティシティとの関連を指摘。さらに、西洋と日本での自己の認識の違い(自律的<自己>に対し間主観的<自己>というもの)を指摘したうえ、Linda Alcoffが"Cultural Feminism versus Post Structuralism"で提案した"positionality"という概念を紹介。日本では間主観的に<自己>が認識されるという特徴を踏まえ、ローカルなものの中から理論化や実証研究が進められることが必要だろうと結論(タイトルの問いに対する答えが出るとしたら、それから)。 田崎さんは「テロと戦争とクィア理論」と題して発表。Jasbir K. PuarのTerrorist Assemblagesを下敷きに議論が展開されました。イラク戦争以後急速に世界で展開した、アラブ社会における同性愛者の人権保護を求める動き(アラブ社会での同性愛者の処刑はイラク戦争以前からあったものだが可視化されたのは開戦後であり、また処刑理由の区別[少年に対するレイプか否か]が明かされていないという問題がある)を例に、Puarは"homonationalism"という概念を示し、旧来からあるコミュニティのクィアフォビアよりもメインストリームのコミュニティにおけるレイシズムの方が強まっているという。この"homonationalism"は、いわば、"homonormativity"が公的領域に入り、"heteronormativity"を補完するものとしてネオリベの枠組みに組み込まれ、レイシズムに向かったものだと言える。レイシズムとは目に見えるもの、恐怖をかき立てるものに対する差別であり、恐怖とは、統計的手法を用いたコントロール社会が導き指すリスクが可視化されたものである。そして近代社会において、恐怖はレイシズムホモフォビアという形で現れる。メインストリーム社会は、マイノリティに自分たちが脅かされるのではないかという不安を抱え、マイノリティに攻撃 されることを恐れているからこそ、マイノリティを攻撃するのである。これがヘイトクライムの論理であるが、この論理はまさにテロとの戦争の論理なのだと結論。ちなみに、タイトルの問いに対する田崎さんの答えは、「もっと<クィア>になろう!」でした。
Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times (Next Wave: New Directions in Women's Studies)Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Times (Next Wave: New Directions in Women's Studies)
(2007/11/30)
Jasbir K. Puar

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シンポジストのお二人の議論において、「人種」と「暴力」という問題が共通して論じられたことから、ディスカッションではまずこの2点を取りあげた意図や意味についての質問が司会から投げかけられました。さらに、当事者性、「クィア」と"queer"との違い(カタカナの「クィア」のもつインパクト)という点についての質問、地政学的な問題を考えるならばアメリカとの関係だけでなくアジアとの関係も見るべきではないかという意見が出ました。 回答では、人種についての田崎さんの話が非常に興味深く、じっさい考えなければなぁと思いました。曰く。人種というのはヴィジブルなものとしてとらえられがちだけれども、反ユダヤ主義や黒人差別における"one drop theory"の例もあるように、実は人種は自明のものではない。また、人種というのは私的領域ですら明かせないような問題でもある。このような点から、レイシズムホモフォビアには類似性がある。こうした点から、問いを突きつける際に人種という観点を持ち出すことには意義がある。 最後に個人的な感想をいくつか。 まず運営という点で、ハンドアウトがあるのに慣れきっている身には、ハンドアウト無しというのは少々きつうございました。 それから内容に関しては、<日本>というものをめぐる地政学的な議論をもっと聞いてみたかったというのがまずあります。それから、暴力というのが議論の中心になっていたということ(田崎さんが精神分析のことを何度も口にされていたこともあるし)からしても、竹村和子さんの見解を聞きたいという気持ちを抑えられませんでした。仕方がないことといえ、今回の竹村さんの降壇は非常に惜しまれます。